風俗の歴史 その2 明治・大正編

 文明開化以降の風俗の発展 

  嘉永6年(1853年)に、歴史で誰もが聞いたことがある代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件である黒船来航、その後の1872年(明治5年)、ペルー船籍のマリア・ルス号が、清国から奴隷として買い入れた清国人約200人を乗せて、横浜港に停泊しました。

 

この時に起こる事件を『マリア・ルス号事件』と呼び、脱走した清国人によって、マリア・ルス号が奴隷運搬船であることが分かり、日本政府は人道の観点から、マリア・ルス号を出港停止処分にして、清国人を全員下船、解放します。 一方、ペルー側はこれを不服とし、「日本でも、芸娼婦という形で人身売買が行われているにもかかわらず、他国の奴隷契約を禁止するのは不当である」と非難し、国際的にも問題になります。

 

日本はこの批判を受け、1872年(明治5年)10月に「芸娼妓解放令」を出します。この法律は、強制的な年季奉公の廃止など、公娼制度を大規模に制限する法令でしたが、準備期間が全くないまま、唐突に発せられたこともあって、解放された女性の就労支援、収入面での補償は行われませんでした。

そのため、解放されたものの生活が立ち行かず、再び遊郭に戻る女性も多く、実際に女性がおかれている状態はあまり変わらなかった、とされています。   芸娼妓解放令以降は、「貸座敷営業」という形で、女性が、大家から特定の店や部屋などの場所を借りて、その場所を使って自分の意思で売春を行う、という形式に変化しました。

しかし、実態は、それまでの遊郭とほとんど変わらなかったようです。貸座敷営業は警察によって管理され、「公娼制度」として機能しました。  

 

1924年(大正13年)の時点で、全国の貸座敷営業指定地域は545か所、そこで働く娼妓は、約5万2千人いたとされています。    

 

 昭和(戦時中まで)編

  昭和の戦時中は、個人思想よりも、国家や軍隊が優先される時代でした。こうした中で、恋愛や性に関する問題は隅に押しやられ、兵士の性欲処理機関としての慰安所、慰安婦がクローズアップされるようになります。  

  • 慰安婦とは、戦場や軍隊の基地に置いて、軍人を相手に性的なサービスを行う女性の総称です。慰安婦は、慰安所と呼ばれる施設で、有償で兵士や将校への性交の相手を行いました。サービスの際には、軍によって支給された避妊具を使用しました。ちなみに、陸軍が陣中用品として配布したコンドームの数は、年間3210万個、1日平均8万8000個に上ったそうです。

  慰安所は、戦線の拡大に伴い、中国、フィリピン、インドネシア、タイ、ビルマ、ニューギニア、香港、マカオなど、各地に設置されました。慰安婦を求める兵士の数と比較して、慰安婦の人数は不足気味であり、慰安婦は、場合によっては、一日十人以上の兵士の性の相手をしなければならなかったこともありました。

慰安婦の仕事で高額のお金を稼ぐ女性もいましたが、前借金の支払いや業者の仲介料に消えることも多かったようです。   慰安婦における強制連行の有無や、それに対する軍の関与の有無については、政治的な論争になっています。

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