風俗の歴史 その5 70年代編

1976年~1980年代 ノーパン喫茶の登場、「素人女性」の参入

  70年代の後半から80年代初頭にかけて、「ノーパン喫茶」という業態が、一世を風靡します。最盛期には、日本全国で800件以上のノーパン喫茶が存在したとみられています。  

当初は、喫茶店のウェイトレスが、文字通りパンティをはかないで接客する、というだけのサービスでした。男性客は、ウェイトレスがテーブルにカップを置こうとして前屈みになる=スカートの中身が見えるのを、ひたすら待つ、という微笑ましいものでした。

しかし、店舗の増加に伴い、競争も激しくなっていき、床を鏡張りにする店、外人のウェイトレスを集める店、トップレスで接客させる店など、様々な工夫が凝らされるようになりました。  

「ノーパンになるだけ」という、特殊な技術や覚悟が無くても働けるノーパン喫茶の登場により、女性が性風俗の世界に入る際のハードルが、ぐっと低くなりました。その結果として、「素人」と呼ばれていた普通の女子学生やOLが、軽い気持ちで、性風俗の世界に参入してくるようになります。  

 

70年代以降のラブホテルやモーテル(モーターホテルの略:車での乗り入れが可能なので、こう呼ばれました)の増加、性風俗の世界への素人の参入増加に伴い、「団地妻売春」「ルンルン売春」と呼ばれる、素人の女性による、悲壮感や罪悪感の薄い売春行為が、マスコミを騒がせるようになりました。ホテルで行われる売春(トルコ風呂サービス)は、略して「ホテトル」と呼ばれます。   「結婚するまでは処女」という旧来型の女性の性意識は、70年代を通じて大きく変化し、結婚するまでに、複数の男性と恋愛をしたりセックスをしたりすることが当たり前になったこともあって、セックスへのハードルも低くなります。   日本社会では、昔から女性を、「性を売る玄人」と、「性を売らない素人」の2種類に分けていました。公娼制度が作られたのは、「性を売らない素人」の女性の貞操を守るため、という目的があったからです。

 

しかし、80年代に入って、セックスによるコミュニケーションが通常となり、素人と玄人の境界線は一気に曖昧になります。   ノーパン喫茶が進化する形で生まれ、以降の性風俗の世界を変える業態になったのが、「ファッションヘルス」です。ノーパン喫茶で興奮した男性を、女性が個室内に誘導し、射精まで導く、というスタイルが変化し、はじめから、個室内でのサービス(裸でのふれあい~手による射精まで)が行われるようになります。

ソープランドのようなプロの女性ではない、初々しい素人の女性と、裸で、かつ(ソープと比較して)低料金で遊べる、という設定が人気を博し、一大ブームを巻き起こします。  

 

風俗の世界のアイドル=「フードル」という現象も、このファッションヘルスから生まれました。この時期、性風俗店を紹介する風俗雑誌が次々に創刊され、ファッションヘルスで働く女の子が「フードル」として顔出しをして、誌面を賑わすようになりました。そうした流れの中で、「生活苦に陥った女性が、生きるために、やむをえず自分の身体を売る」といった、これまでの悲壮感に満ちていた性風俗のイメージが、ファッションヘルスの登場によって、多少なりとも、明るいものに変化しました。  

ファッションヘルスを契機として、「本番行為を伴わない、性風俗サービス」の店舗が次々と生まれてきました。射精だけでなく、全身への刺激とマッサージを行う「性感マッサージ」、性感マッサージとファッションヘルスの内容をミックスし、全裸の女性が、口や手を使ったマッサージをしてくれる「性感ヘルス」、制服やナース服、スクール水着などの様々なコスチュームでのイメージプレイを楽しむ「イメージクラブ(イメクラ)」、アジアの女性が、それぞれの出身国の文化に応じたマッサージをしてくれる「韓国エステ」や「中国エステ」など、多くの業態が生まれ、多くの男性ファンを獲得しました。それに伴って、本番行為は可能だが、利用料金が高額であるソープランドの人気は、徐々に低下していきます。

 

 1985年、こうした新しい業態の性風俗の増加に伴い、風営法が改正・施行され、規制が強化されます。この改正によって、ファッションヘルスが公安委員会の営業届出の対象業種になりました。その結果、これまで何百店舗もの数があったノーパン喫茶が姿を消すこととなります。      

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