風俗の歴史 その3 戦後編

戦後の風俗の発展

戦後の売春の歴史は、国家の一大事業として開始されました。敗戦からわずか3日後の1945年8月18日、警視庁は、アメリカの進駐軍兵士のための慰安施設=RAA(recreation and amusement association:特殊慰安婦設備協会)の設立協議を、花柳界の代表者と開始します。

 

この政策は国によって対米軍に対しての慰安場を設立したとされています。

 

  ≪設立の理由≫

政府首脳が、日本が進駐軍によって占領されるにあたり、兵士によって日本の一般婦女子の貞操が汚されることを恐れたためと記録 RAAでは、「日本女性の防波堤たれ!」というスローガンが公告され、公募に応じてきた一般女性たちが、RAAの人員として集められました。

 

「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給」などの広告が東京・銀座に設置し、新聞広告でも一般女性の募集が行われました。   他に生活費を稼ぐ手段無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、第一回の募集では、1,300人あまりの女性が、RAAに登録しました。東京都内だけでも30ヶ所以上、全国では最盛期では7万人にのぼる女性が、進駐軍兵士相手の売春行為に従事していたと見られています。

  しかし、設立から半年足らずで、RAAは閉鎖に追い込まれます。進駐軍兵士の家族やキリスト教牧師の反対、性病の蔓延などを理由にして、GHQによる立ち入り禁止措置が下され、強制的に閉鎖される結果となりました。特殊慰安施設は廃止されましたが、そこで働いていた女性たちの多くは、当時「パンパン」と呼ばれた街娼、水商売等に進んだと見られています。    

1946年 公娼制度の廃止と、合法売春=赤線・青線地帯の誕生

  GHQは、「デモクラシーの理念に反する」という理由で、日本政府に公娼制度の廃止を要求。

その結果、公娼制度は廃止。

ただ、その跡地での売春行為は、「自由恋愛の結果」として解釈され、取り締まりの対象にはなりませんでした。売春行為は「社会の必要悪」とされ、特定の地域に限定して囲い込んだ上で、その地域内での営業を集団的に認める、という政策がとられることになります。  

警察当局は、売春行為が行われている「特殊飲食店」に指定された特定地域を、地図上に赤線で囲って、区分しました。ここから、警察当局の黙認の下に売春が行われている地域を、「赤線地帯」と呼ぶようになります。特殊飲食店に指定されない非公認の売春地帯は青線で囲まれ、「青線地帯」と呼ばれるようになりました。   こういった、戦後の「合法売春」が続いた期間は、わずか10年でした。国連への加盟のためには、売春の禁止が必要条件であったため、

 

1956年5月、売春防止法が制定。

1958年に施行されました。  

これに伴い売春は違法行為となり、赤線地帯で営業していた特殊飲食店は廃業になりました。当時、7万人~10万人近くいたとされる赤線女性たちの何割かは、「黒線」と呼ばれる暴力団による管理売春の世界に流入していったとされています。ちなみに、青線地帯は、警察による取り締まりをあまり受けないまま、営業を続けている店舗が多かったようです。   売春防止法により、街角で売春行為を行う女性=街娼も、激減します。以降は、比較的安全に性サービスを提供することのできる(受けることのできる)場として、男性、女性ともに、売春行為を行わない性風俗店に集まるようになります。    

1950年代 ストリップが大衆娯楽人気急上昇

  戦後、女性が舞台の上で服を脱いでいく出し物=ストリップが、大衆娯楽として人気を集めました。ストリップ劇場では、幕間にコントが行われることも多く、渥美清や萩本欽一、ビートたけしなど、昭和を代表する喜劇人を数多く輩出する舞台にもなりました。初期のストリップでは、ストリッパーの女性は全裸にはならず、「バタフライ」と呼ばれる前張りを股間に貼り付けていました。    

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