1960年代 非売春系の性サービス=性風俗が発展
売春防止法によって売春が禁止された結果、性産業では、業界全体の生き残りをかけて、売春行為を行わずに男性の性的欲求を満たす業態(現在のソープランド等)が、次々に開発されていきました。
その中で、もっとも成功を収めたのが、「トルコ風呂」(現代では、ソープランドと名称変更)という業態です。
個室内に浴槽とベッドが設置されており、男性利用客は女性に身体を洗ってもらいながら、浴槽内やベッド上で、性的なサービスを受ける、という内容です。
トルコ風呂の登場当初は、警察の監視もあって、サービス内容は、女性の手による射精サービスどまりでした。その後、高級店の登場や、「泡踊り」(女性が全裸になって身体中に石鹸をつけ、男性の体に自分の身体をこすりつけて洗うテクニック)などのサービスが開発され、最終的には、女性器への挿入=売春行為までもが、警察によって黙認されるようになります。 現行の法律上は、売春防止法によって、売春は禁止されています。
しかし、ソープランドでは、「経営者は、女性(位置づけとしては自営業者)に、営業の場として、個室付きの浴場を貸しているだけであり、個室の中で何が行われているかに関しては、関知しないし、責任も負わない」という曖昧な理由で、売春行為は黙認されています。
すなわち、「売春は違法行為であるが、ソープランド内での売春に限ってはOK」という、二重基準が存在しているのです。 トルコ風呂(ソープランド)と並んで発展した業態が、「ピンクサロン」(通称ピンサロ)です。
薄暗い個室のあるサロンで、女性がタッチサービスや、手・口による射精サービスを提供する内容で、ソープランドよりも利用料金の安い、庶民の娯楽として普及しました。 競争が激化する中で、女性が全裸でサービスする店舗が登場したり、「本サロ」と呼ばれる、本番=売春行為を行うサロンが登場し、利用客を集めました。本サロは、当然警察による摘発を受けましたが、埼玉県の西川口などのように黙認される地域もあり、そうした地域は「低料金で本番のできるエリア」として人気を集め、地域経済の振興にも寄与しました。
ピンサロの世界では、警察の規制が強まると本サロからピンサロに戻り、規制が緩まると再び本サロを始める、というイタチごっこが繰り返されました。
1964年、東京オリンピックの開催に先駆けて、民間人の海外渡航が解禁されました。これに伴って、海外からの往来も自由になり、「ジャパゆきさん」と呼ばれるタイやフィリピン、中南米の女性が、売春の個人営業や、ソープランドでの勤務を始めるようになります。
1970年代:トルコ風呂全盛期
1970年代に入ると、各家庭に自家用車が普及し始めます。
それに伴い、都市圏から離れた地域での性風俗産業が活発化します。1971年、滋賀県大津市の雄琴温泉にて、トルコ風呂が営業を開始します。
当初は、「繁華街でもなく、交通の便もよくない温泉街では、客が来ないのでは」という声が多かったのですが、いざ営業を開始してみると、京都や大阪、北陸、岐阜や名古屋からも、男性客が車で押し寄せる結果になりました。2年後には、雄琴のトルコ風呂は37件に増加し、月間11万人もの利用客の集まる、一大トルコ街へと変貌。地価上昇により、地元農家の土地成金が続出し、雄琴全体が大きく発展しました。
1972年、札幌冬季オリンピックの開催を機に、札幌市の繁華街・すすきのの性風俗店も、店舗数・サービス内容ともに、大きく発展しました。 また同年、沖縄が日本に返還されます。アメリカの統治下であった沖縄では、売春防止法が適用されなかったので、戦前からの遊郭は戦後もそのまま存在し、米兵相手の売春サービスが、島の経済を潤しました。
返還を前にして、1970年に、売春防止法が公布・施行されました。
法務局の推定によると、当時の沖縄全島の売春婦は、7,385名。沖縄において、いかに売春が大きな産業であったかが伺えます。このように、性風俗は、その時代の社会情勢、そして地元の経済発展と、密接に結びついていたのです。 1975年の段階で、全国のトルコ風呂は1239店舗、そこで働くトルコ嬢は、16,833名にのぼりました。法律的には、売春は変わらず違法行為であり、売春防止法違反で検挙される人は後を絶ちませんでしたが、トルコ風呂は官民接待の場でも利用され、社会の中で、良くも悪くも「黙認」されていくようになります。
ソープランドの発展に合わせて、ストリップの世界でも、「全スト(全裸になるストリップ)」が盛んになり、全国各地に広がっていきました。舞台の上で行われることも次第にエスカレートし、舞台上でお客と女性がセックスをする「まな板ショー」が全国に広がりを見せました。
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